ムラサキノヤカタ

徹頭徹尾ひとりごと

ダメな人って𠮟りながら

「今日はいい日でした?」

公害訴訟の弁護団会議に出ていた先輩は、23時25分に事務所へと戻ってきた。このところ先輩とは、23時を過ぎた静まり返ったこのオフィスで、お互いモニターに目を向けながら話をするのが恒例となっている。今夜はそのまま弁護団で懇親会があると聞いていたから、事務所の鍵を開けて入ってきた足音に振り返り、驚いた。

先輩は、事務所から歩いて5分のところに住んでいる。月末とはいえ、アルコールが入った身体で仕事をするのか。先輩の胸元に巻かれている白を基調としたスカーフは、弁護団の若手メンバーの間でも評判がいいらしい。

 

「いい日、来る気がしないんですけど」

余裕がなくて、思ったままに口を滑らせる。

先輩は少し笑って、何か言いたそうな間を置いたが、結局何も言わず仕事に戻った。

公示送達上申書の起案を終えた僕は、添付写真を厳選して、所内チャットに業務指示を送る。深夜に業務指示のメンションをつけるなんて申し訳ないと思っていたころもあったが、今ではそんなことも気にしていられない。うずたかく積まれていく目の前の仕事を、ひとつずつ片付けていく。少しずつ順番がわからなくなってくる。ずっとこのままなのか。

今日は1本早い電車に乗ろうと決意する。明日も、明後日も。

どこからやり直したらそうなれるだろう?

 

 

「今日はいい日でした?」

少し経って、わかったことがある。

あの日の先輩と同じ言葉を投げかけてきているこの人は、祈っているんだ。

 

「まだ終わっていないので、いい日であるように努めようとは思いますけどね。」

 

 

 

 

青と黒の帽子をかぶった少女

5年ぶりに祖母と再会した。

感染症が蔓延したり、本人が入院したり、僕が神戸に住んだりするうちに、彼女は82歳になった。

 

司法試験に合格したとき、はじめに僕が電話を掛けたのは、祖母だった。

「むらさきくんは優しい人だから、きっと立派に活躍するよ。」

数ヶ月後、実務修習が始まったことを報告する電話を入れた。僕が神戸に住み始めたという知らせは、そのときの祖母にとっては複雑すぎたようだ。何度訂正しても「大阪の食べ物は口に合うかね」と繰り返すので、余計な事を言うのは辞めようと思った。

 

 

JR松本駅のアルプス口に迎えにきた叔父の車に乗り込む。後部座席には、記憶の中の姿と重ねると幾分小さくなったように見える祖母の姿があった。

「いい天気でよかったね。」

「免許返納してから道がわからなくなった」

「しかし、紅葉が綺麗だね」

1分前にしたばかりの話を繰り返すし、最近の出来事は何も覚えちゃいないが、僕が司法試験に合格したことはちゃんと覚えていた。めちゃくちゃ泣かれた。

 

「お仕事は上手くやっているかね。弁護士さんは大変だろうけれども。」

「いろいろ迷走はしているけど、なんとかやっていくよ。まだひよっこだから。」

「変な事聞いちゃったね、でもばあちゃんは嬉しいよ。

なにもできないけれど。のほほんと笑っていることしかできないけれども。ばあちゃんは応援しているよ。」

 

初めて、はっきりと「間に合った」という感覚をおぼえた。僕もたまには締切を守れる。

 

祖母の暮らす家にはマリー・ローランサンの絵が飾ってある。

僕の家にも同じ絵のポストカードがある。僕が京都で観て好きになった絵だ。

 

やっと祖父にも報告できた。

「Tonight、隣の」

新幹線は名古屋駅に着いた。

11月の三連休終わりの日曜日だった。自由席の車内は混雑していて、僕が座っている7列目のシートの周りにも、スーツケースを携えた客がひしめいている。僕にとっても、おそらく彼らの多くにとっても、あまり意味のない平日が待っている。

 

新大阪では彼が待っている。

ちょうど日本シリーズ第6戦のパブリック・ビューイングを、東京から弾丸で観に行ってきた彼。阪神タイガースの日本一が決まらなかった土曜日を過ごした不運な彼ら。

 

ほんの15分くらいのすれ違いを、彼は歓迎してくれた。

「東京地裁のプログラムで、あっちに戻っていたんです。」

「お疲れ。今度引っ越すからうちに来てよ。」

「ぜひ。」

「約束だぞ。俺たちでご馳走するから。」

その日、阪神は38年ぶりの日本一に輝いた。

 

ほどなくして、「彼ら」との約束は、守ることができた。

 

…甲子園を見に行こうって約束、守れなかったな。

 

 

パワポケのビターエンドっぽいものが書きたいのかもしれない。

でも、そんな立ち回りばかり続けていると、いつまで経っても幸せになれないよ?

 

関西⇔関東を移動する私は、いつも決まって、リーガルリリーの「ハイキ」を聴く。

 

「全てのことには、わけがある」

自分の考えていること、思っていることをうまく伝えられそうになくて、今この手紙を書いています。あなたに向けて。

この間はどうもありがとう。僕は今、『ねじまき鳥クロニクル』の第三部を読み進めています。僕があなたと水族館に行きたいと言ったのは(そしてそこで二人で数多くのクラゲを見たのは)、前提として彼らの物語がそこにあったからです。僕も幼いころ、海水浴に行った海でクラゲに刺されたことがあるけれど、幸いにも彼らのことを怖いとは思わなかったな。

 

 

かつてハンセン病に罹患した人々が隔離されていた、瀬戸内海の長島という島があります。

昨年の10月、司法修習のプログラムの一環で、僕はそこを訪れました。神戸には全部で54名の修習生がいましたが、そのプログラムを選択し、抽選の結果その島を訪れたのは、せいぜい7~8名でした。

かつてそこで人々がどのように扱われ、いかにして人間としての尊厳を奪われていったのか。

人々が目を背けたい現実、多数派と異なる人を視界から廃除しようとする作用はとても強い力を持ってるし、その動きは実にあっさりと進行し、完結してしまう。簡単に起こってしまうから、これまで多くの社会が、それを繰り返している。

資料館を案内する学芸員の方の話を聞きながら、僕はあなたの顔を思い浮かべていました。

誰かとこの話をしなければならない。

「神経が麻痺していたとき、熱いスープをこぼしてしまった患者さんがいた。彼はその熱さに気付けなかったから、結果的に広範囲に大やけどをしてしまい、義手を使うことになった。人々は、『ハンセン病は手を奪う、足を奪う』と言った。人々は了解しやすい結果しか注目しない。」

 

僕が東京に帰ったとき、あなたが熱を出したと聞いて、心配しました。同時に、早くあなたに会いたいという思いが強くなったのを覚えています。

結果的にあなたと再会できたのはそれから2週間後だったでしょうか。どういうわけかその日の僕は、長島で僕が感じたことについて、あなたに話すことができませんでした。

あのとき、あの島で僕が感じたことが、すっかりそのまま僕の身体に残存しているうちに、あなたにこの話をしておくのがよかったのでしょう、きっと。細胞は日々入れ替わってしまうと聞きますし。

いつかあなたとあの島に行きたい。あなたさえよければ。

あなたとクラゲを見ている間、横で黙っていた僕が考えていたことを言葉にすると、だいたいこんなものです。あなたに話したいことはまだまだあるけれど、いつももう一歩が踏み切れない。

僕らにはまだ時間が足りていないのかもしれないですね。

 

またゆっくり話しましょう。

 

純粋さは隠すだけ損

2024年7月24日。

 

一日休みを取って、九段下にいた。

5年前からこの日を待っていた。この日のために、何とか自分の人間としての形を保ち、息をしてきた。

大好きな音楽を浴びる瞬間であっても、僕たちは極めて現実的に息をしているし、つとめて現実的に腹が減るのだ。この日を迎えるまで息をしていなければならないし、この日を過ぎても、僕は飯を食わなければならない。

 

「お人好しカメレオンと、5年ぶりの『今日はよく来た』」

・15周年の舞洲は、1曲目に「お人好しカメレオン」が抜擢された。

僕にとって「お人好しカメレオン」は、大切に扱うべき「田淵の本音曲」のひとつだ。

この抜擢が意味するところは当時から散々語られてきた。

彼らが20周年ライブを終えた今になって振り返ると、あの日のセットリストは、大切に大切に温められてきた、今回のライブの下準備でもあったのだと感じ始めている。今回一曲目に抜擢された「Catch up, latency」は、「田淵の本音曲」のエースである「春が来てぼくら」に与えられた重要な回答のひとつだ。

 

・UNISON SQUARE GARDENのワンマンライブは、極端にMCが少ない。

ときに、アンコールまでMCなしで駆け抜けてしまう。喋るときは、フロントマンのギタボが1人で喋る。余計な情報は徹底的に排除されている。音楽がかっこいいので、それが成り立つ。

だから、この日のような特別なライブでドラムとベースが語る時間は、特別な緊張感をもって迎えられる。黒夢、THE BLUE HEARTS、パチンコに没頭した「いつかの少年」が語る、物好きのためだけの特別な時間。

田淵は「今日はよく来た」といって僕を迎えた。

 

 

「ロックバンドは、『やっぱり』楽しい。」

今回武道館で起こった一連の出来事は、いわば「超新星アクシデント」だった。各々が好き勝手なタイミングで踊る、いつものライブ。瞬間、あの会場にいた全員が同時に息を飲んだ。誰もあの瞬間の邪魔をしなかった。

 

あの瞬間に起きたこと、その一息一息をここに書き記すことは野暮であり、不完全な営みであるように思う。

ひとつ言えるのは、「ロックバンドは、やっぱり楽しい。」の「やっぱり」に含まれる意味が、開演前と後で決定的に異なっていたろいうことだ。

このライブを見ていた全員が、潜在的にその4文字に含まれた文脈を理解しつつ、はっきりと認識できていなかったのだ。

 

 

「ひとりきりでも、誇れるもの」

俺のための音が鳴っている。

深夜に寝室を抜け出し、リビングにあった両親のPCからニコニコ動画にアクセスし、ボーカロイド文化に片足を突っ込んでいた2012年。

藤浪晋太郎が甲子園で圧倒的な投球をし、kemuが「六兆年と一夜物語」をアップロードした年。

長いバンド名を覚えるより前に耳に残った、「つまり半信半疑あっちこっち」というフレーズのみから、僕はなんとかこのバンドにたどり着き、TSUTAYAに行って3rdアルバム『Populus Populus』をレンタルした。ほどなくして、人生で初めて購入したCDが1st『UNISON SQUARE GARDEN』になった。『TIGER&BUNNY』のTVシリーズの再放送が始まったので、毎週録画した。気づけば、「リニアブルーを聴きながら」が流れる劇場版CMの虎徹とバーナビーの台詞を暗唱していた。

歌詞は聞き取れないし、歌詞カードには全く理解できない言語が並べられていたけれど。「誰もやってくれなかった、俺向けの音が鳴っている」という感触。そのときはっきりと自覚できていたわけではなかったが、確かな感触だった。

 

高校時代に出会った友人の一人は、僕によく長い話をした。「自分だけが大事にしているもの、誰かに勧められることなく引き寄せられたもの、誰にも譲れないものを愛そう。」

 

19歳になった僕は、少ないバイト代をはたいて『Dr.Izzy』ツアーの横須賀公演に足を運んだ。デカい音でバンドを聴く体験は、何にも変え難い。

この感触が確信に変わったのは、2018年4月のMODE MOOD MODEツアー市川講演だった。

 

6th『Dr.Izzy』が僕の人生の方向性を決定づけたアルバムであったとするならば、7th『MODE MOOD MODE』は、「来た道を引き返せなくなってしまった」アルバムであったと言える。

このアルバムは、リリース当日に至るまで、事前発表シングル曲を除いた収録曲の曲名、曲順が公表されていなかった。リリース当日にわざわざショップまで足を運び、「時代遅れの」メディアを手に取った物好きだけが、世界で初めてアルバム収録曲のタイトル、曲順の目撃者になる資格を与えられる。

 

あれから6年が過ぎた。今でも僕は、周囲の人間にUNISON SQUARE GARDENの話をするとき、このエピソードを持ち出して、昨日のことのように語る。ロックバンドのフルアルバムの持つロマンと、それを諦めないための誠実な構成が、このバンドの核心部分であり、このバンドの音楽体験を象徴していると考えているからだ。

まだ誰も聴いたことのないアルバム曲の「曲名」、見知ったシングル曲の位置する「曲順」、そんな細部にまで喜びを感じる物好きをワクワクさせる売り方を、この時代において諦めないこと。多分、そんなに簡単じゃなかったのだと思う。相当に困難な毎日だったはずだ。今回の田淵のMCは、その答え合わせだったのだ。「Hatch I need」から「マーメイドスキャンダラス」へと繋げたあの曲順を体感して、ぼくはバンドの歴史に花マルをつけた。

諦めないでいてくれてありがとう。

 

 

 

ーMMM市川講演は、僕が初めて「ひとりで」観に行った音楽ライブだ。

今振り返ってもセットリストの曲順が良すぎる。そりゃこんなライブを見せられたら、どうしても核心を確信してしまう。

当時の僕が書いた文章が残っていたので、ここに引用する。

 

フェス全盛期である今の音楽シーンのことを仮に「共感市場」と呼ぶとする。

そこには認知だとかハッシュタグでの繋がりだとかスタンディング至上主義などといった数多の”お約束”があって、顧客らはある種そのレールに乗って楽しむことが期待されている、そんな側面がある気がする。

音楽を分かち合うこと、それを否定したいわけじゃない。

人との繋がりは絶対に人間に必要なものだから。

その繋がりのきっかけが音楽であるのは素敵なことだ。

でも僕はこの日、「ひとりで」ロックバンドのライブを見たんだ。ひとりで興奮してひとりで爆笑して、ひとりで涙した。それは本当に幸福な時間だったし、何物にも代えがたい体験だったと思う。

僕にもやっと、周りを気にせずひとりきりで楽しめる場所ができた。それが、何よりも嬉しい。

 

 

 

 

やあ、あれから6年経ったよ。

君と会って12年だね。

明日も息をして、飯を食っていけるかい?

 

 

 

 

 

汽車のメタファー

久方ぶりに13番線のホームに降り立った僕は、何かを待っていた。それは総武線のことかもしれないし、迎えにいけなかった一昔前の僕のことなのかもしれない。別にどちらだったとしても構わない、なぜなら僕は山手線に乗るから。待ってばかりはやめるって、さっき決めてしまったから。

 

東京から新神戸は、2時間40分で移動することができる。そんなに遠くないんだな。

 

司法修習に行ってみて実感できたことはたくさんある。偏差値のとても高い大学を出た人たちにとって受験勉強をすることは当たり前のことであり、当然に彼ら彼女らはそれ以外の人生をちゃんと持っていること。エスカレーターのお金持ち学校に通っていた人たちは、大学受験なんて大層な機会装置を与えられなくても、ちゃんと何かしら勉強してきたこと。どんな地域にも、その地域の人々にとっての代替不能な生活が存在していること。

 

見てきた物や聞いた事、今まで覚えた全部は、きっと今すぐに思い出すことはなくても、曖昧な形でそのへんを漂っているはずだ。そいつらはときに僕の人生を鮮やかに彩り、ときに僕や周りの人間の心を深く傷つけるだろう。

 

冒頭2行は、2月の僕が書いたものだ。

何を書こうとしたかなんてちっとも思い出せないが、多分漱石の『草枕』になぞられえて、何かを残したかったのだろう。汽車の中の1人であるとき、汽車の中の1人であることに自覚的でいたい。後付けで今の僕が息を吹き込むと、そういう話になる。

そういうとこなんだとしたら、決定的に違うと思っている2月と12月も、実はそんなに変わらないのかもしれない。日々の連続性は簡単に断ち切れない。

 

別に何回失敗してもいいし、それなりに上手くやっていることをすぱっと諦めてしまってもいい。ここで学んだつもりになっていたことを捨ててしまってもいい。また息を吹き込めばいいのだ。

 

 

 

 

ずっと同じようなことを書いている気がする。

明日も明後日も水を汲み続けよう。

 

 

 

 

知覚・記憶・表現

 生前の記憶を維持してSNSを使う2歳児の夢を見た。彼女はれっきとした2歳児だったが、その文体は常に軽快なステップを踏んでいた。なぜ彼女がその2歳児の中にいると気付くことができたのか、振り返ってみてもよくわからない。彼女は大学2年生の時に、ボストンの大学に1セメスターだけ留学していた。僕が大学1年生の時のことだ。彼女と1対1で話す機会は少なくなかったが、僕は彼女からボストンの話をしっかりと聞いたことがなかった。きっと僕に話そうと思う話題がなかったんだろう。興味深い話題を引き出せないのは8割が聞き手のせいだ。

 「2歳児の言語感覚を思い出すにはどうしたらいいんだろう。僕の弟が2歳から3歳の間、『6』を『どく』と発音していたように、言語の捉え方にはその人の何かを示唆するものが含まれている気がするんだ」

 2歳児は大きな目を見開いて、静かに僕の話を聞いていた。25歳が何を考えているかだってよくわからないが、2歳児となるともっとわからなかった。

 「今も昔も、そんなに変わらないよ、あなたは」

 2歳児はそう呟いた。

 そうかもしれない。