ムラサキノヤカタ

徹頭徹尾ひとりごと

汽車のメタファー

久方ぶりに13番線のホームに降り立った僕は、何かを待っていた。それは総武線のことかもしれないし、迎えにいけなかった一昔前の僕のことなのかもしれない。別にどちらだったとしても構わない、なぜなら僕は山手線に乗るから。待ってばかりはやめるって、さっき決めてしまったから。

 

東京から新神戸は、2時間40分で移動することができる。そんなに遠くないんだな。

 

司法修習に行ってみて実感できたことはたくさんある。偏差値のとても高い大学を出た人たちにとって受験勉強をすることは当たり前のことであり、当然に彼ら彼女らはそれ以外の人生をちゃんと持っていること。エスカレーターのお金持ち学校に通っていた人たちは、大学受験なんて大層な機会装置を与えられなくても、ちゃんと何かしら勉強してきたこと。どんな地域にも、その地域の人々にとっての代替不能な生活が存在していること。

 

見てきた物や聞いた事、今まで覚えた全部は、きっと今すぐに思い出すことはなくても、曖昧な形でそのへんを漂っているはずだ。そいつらはときに僕の人生を鮮やかに彩り、ときに僕や周りの人間の心を深く傷つけるだろう。

 

冒頭2行は、2月の僕が書いたものだ。

何を書こうとしたかなんてちっとも思い出せないが、多分漱石の『草枕』になぞられえて、何かを残したかったのだろう。汽車の中の1人であるとき、汽車の中の1人であることに自覚的でいたい。後付けで今の僕が息を吹き込むと、そういう話になる。

そういうとこなんだとしたら、決定的に違うと思っている2月と12月も、実はそんなに変わらないのかもしれない。日々の連続性は簡単に断ち切れない。

 

別に何回失敗してもいいし、それなりに上手くやっていることをすぱっと諦めてしまってもいい。ここで学んだつもりになっていたことを捨ててしまってもいい。また息を吹き込めばいいのだ。

 

 

 

 

ずっと同じようなことを書いている気がする。

明日も明後日も水を汲み続けよう。