ムラサキノヤカタ

徹頭徹尾ひとりごと

イギリスと君の時差

世界は一周した。

僕は一周目の世界において失ってきたものの数を数えようと試みたが、何一つ思い出せなかった。思い出しても確証が持てないのだ。二周目の世界には、似たものが多すぎる。それらを僕は一周目の世界で見たような気もするし、見なかったような気もする。ひょっとしたら何度も手に取って触れていたかもしれない。

一周目の世界にける自分の喪失を、僕はどうしても思い出したかった。何のためにそうするのかはわからない。直感的にそうせざるを得なかった。でも、何度試してみても、結果は同じだった。甦るのは、昨日の朝食べたトーストの暖かさと、縁側に座って外を眺める老人の姿だけ。二周目の世界の僕には、そこに座っている老人が誰なのか、心当たりらしいものが何一つなかった。

二周目の世界は、明らかに僕を特定の「どこか」に連れていきたがっていた。きっとそれはそんなに悪いところではないのだろう。悪いところに連れていかれるわけではない、それはわかっているのだが、どうしても一抹の不安が憑いて回った。

僕は戸棚の青白い扉を開け、すっかり色が落ちて何が書いてあったかわからないケースから、レコードを取り出した。チャイコフスキーの第5番。確かに誰かに教わったはずの、今となっては誰に教わったかわからない、交響曲の旋律に耳を傾ける。ホルンの音が美しく響く音源だった。一つ思い出したのは、一周目の世界の僕は、どうやらロシアに行ったことはないらしい、ということだった。やけに自信をもって甦った記憶だった。この世界でよみがえった一周目の記憶の数々は、僕に何らの感傷も与えない、できすぎた記憶たちだけだった。それらに触れたとき、僕は喜びを感じることもなく、反対に激しく揺さぶられるような苦しみを覚えることもなかった。

ひょっとしたら僕は、本当のところは、何一つ思い出したくなんかないのかもしれない。きっと何もかも忘れたこの二周目の世界で、好きなように暮らしたかっただけなのだ。それならなぜ、何度も何度も同じことを試すのだろう。思い出せないとわかっている記憶を自分の中から汲み取る作業は、費用対効果という点から観察すると最悪だった。大量の汗が滲み出てきて、酷いときは蕁麻疹まで出てくる。そうやって苦しみながら眠りについた夜には、決まって夢の中でたくさんの人が死んだ。

彼らが本当に生きているのか、僕にはだんだんわからなくなってきた。