ムラサキノヤカタ

徹頭徹尾ひとりごと

風邪と秋に関する幾つかの考察

 

秋の低気圧は僕の頭を悩ませる。

比喩でもなんでもなく、なにしろ頭が痛む。

 

職業病の一種だと思うが、近頃、因果関係と相関関係について考えを巡らせることが多い。

 

気圧が下がったことと僕が体調を崩したことが厳密な意味で原因と結果で結ばれているかは、病院で医師に診てもらわないとわからない。(本当は正確な言葉遣いをしたいのだけれど、話がややこしくなるので、ほとんど誤りのない現代の医学への過信を前提としている)

 

原因と結果。 

 

風が吹けば桶屋が儲かるとはよく言ったもので、ある事象とある事象を観察して時系列を遡ると、多くの場合は条件関係が存在する。「あれなければこれなし」というやつだ。先に発生した事象を仮定的に消去した時、後に現れた結果は発生しなかったと言えるケース。仮定的因果公式。

下記の事例は、「あれなければこれなし」の公式に当てはまるが、それをもって因果関係まで認定できるかと問われたら、多くの直感はそれを否定するだろう(僕も同意見である)

 

 

→風が吹く(原因?)

→埃が舞って目に入る

→失明する人が多発する

→失明した人々は職を追われて琵琶法師になる

→琵琶には猫の皮が必要なので猫が殺される

→猫が減って鼠が増える

→鼠が桶をかじる

→桶屋が儲かる(結果)

 

少々馬鹿げている(そもそも上記事例はジョークに近いこじつけから生まれたので当然ではある)因果経過だが、「桶屋が儲かった」という結果と「風が吹いた」という事実に条件関係が存在する以上、事後的に評価をすると、両者に少なからず因果的な繋がりがあることは否定しづらい。

だが、その「原因」に対して結果発生の功績を称えたり、責任を追及できるかという話になってくると、もちろん話は変わってくる。

たとえば失明者が現れるのは、何も必然ではない。

失明しても琵琶を弾かない者の方が多いかもしれない。

「鼠が桶をかじった」ことで「人々が桶を買い求めるようになり」「桶屋が儲かった」くらいであればスムーズに因果関係ありとしてもいいような気がするが、風が吹いたことまで遡って因果関係があるとまでは言いづらいであろう。

 

如何なる事情の存在をもって因果関係の有無を認定するべきかという話はここではしない。僕には難しいから。

 

 

僕が言いたかったのは、そもそもこうした思考アプローチは、ある「結果」となって表面化した事象の「原因」を追求するため行われるものであるということだ。

つまり、当然の事ながら「結果」の発生が思考の出発点として存在する。

正確に言えば、日々起こっている事象は全て「結果」なのだが、多くの結果は私たちの人生にとって注目に値するものではない。

成功とか失敗とか、わかりやすい「結果」にのみ私たちはその視線を向け、原因の追求を行う。

そのような「結果」の発生なしに因果経過の道を遡る者は少ない。あまり実益がないからだ。

 

風が吹かなければ。

 

 

注目に値する結果を引き起こす因果性を、確かに有していた数多の事象。

無限の可能性のままで終わった「原因」。

 

時々そんなことを考える。

風が吹いた僕と、吹かなかった僕。

 

 

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