ムラサキノヤカタ

徹頭徹尾ひとりごと

あの坂を越えて 私になれたらいいなんて

 少しずつ陽の当たる時間が長くなってきているような気がする。午後4時の早稲田駅の周囲は、今し方入学試験を受けてきたばかりの受験生の群れが、秩序立った列を形成していた。見る人によっては例年と何かが違うように見えそうな、その異様な光景の一部を構成していた高橋は、前を歩く学ランを着た男のベージュのマフラーから飛び出している糸が揺れている様をぼんやりと眺めながら、「やっぱりいつもと同じじゃないか」と呟いていた。2月はあの頃と何も変わらないし、どこへも行かない。何故だかやけに遠くまで見通せてしまうこの季節のことを、高橋は好きにも嫌いにもなれなかった。彼が2月のことを好きだろうが嫌いだろうが、2月は他の月より短い。自分の気持ちが整理される前に何もかもが過ぎ去ってしまうから、好きとか嫌いとか結論付ける余裕がないのかもしれないな、などと考えながら、彼は地下鉄の駅へ下る階段に吸い込まれていくその列を抜け出した。

 帰り道の遠回りが高橋は好きだった。遠回りといっても、その日の高橋が歩いていたのは早稲田駅から高田馬場駅までの20分程度の道のりにすぎなかったが…とはいえ家に帰る他に目的のない夕方は、しばしば彼を目的のない歩行へと導いた。すこぶる天気が良かった。

その日は2日連続で務めた単発のアルバイトの帰り道だった。同じ会場を担当した2人の学生は、この手のアルバイト経験が豊富だったようで、仕事は極めて円滑に進んだ。気分が良い。たまには、長時間虚空を見つめるだけの時間も悪くない。そういう時間が確保できない人生はきっと健全じゃない。久しぶりの立ち仕事だったので、高橋の脚に溜まった疲労は、彼の現実的な思考能力をいささか鈍らせていた。彼はイヤホンを両耳につけ、ポッドキャストで先週のラジオを聴き始める。パーソナリティーを務めるミュージシャンは、高田馬場駅周辺のラーメン店についての思い出話に触れ、鼻息を荒くしていた。

 ふと、早稲田通りを歩き続けていた高橋の目に本棚が目に留まった。店頭にセール品の文庫本を無作為に並べているタイプの、小さな古本屋だった。彼はその時初めて、学生街には様々な機能が同居しているということを悟った。その界隈は高田馬場駅に近付くにつれて雀荘と酒場が増えて視覚的にも騒がしくなっていく。しかし高橋が歩いていたその地点は、古本屋や小さなカフェで構成された静謐な街並みを保っていた。同じ道を歩いていた昨日は気付けなかった街並みに見惚れて、彼はその場で足を止め、店頭に並ぶ本棚に並ぶ書籍の背表紙を眺めた。ひょっとしたら本来そこら中に転がっていた様々なチャンスが、人々の人生から奪われつつあるのかもしれないな、と彼は思った。

 いわゆる「4人組」の『憲法Ⅰ』『憲法Ⅱ』の最新版がセットで800円で売っていたので、あまり迷うことなく購入した。せっかくだから、と思った彼はもう一軒古本屋に寄り、光文社古典新訳文庫版の『カラマーゾフの兄弟』を全巻セットで買った。高橋の足取りはさっきより軽くなっていた。